毒雲日記

冴えないワ・タ・シのポイズンダイアリー

Nintendo Laboの衝撃 - 自称情報強者の敗北

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おそらく、もう任天堂スイッチが売れないと宣っていた「情報強者」達は息をしていないと思う。

任天堂はソフトウェア会社になればいい」

「スイッチなんて、スペック低いし、据置機じゃない」

そもそもマーケティングターゲットとして自称にしろ、本当にしろ情報強者という人たちが、どれくらいの割合を示していたんだろう? ゲームビジネスにおいては、ブームになって、なんとなく流れに送れないように、話のネタとして持っておかなきゃって考えになるような、情報弱者にこそ引っかかるような製品がヒットするんじゃないか、と思った。

 

先日発表された、ダンボール工作キット入りのNintendo Laboにおいてのアンチ意見は、「Googleの二番煎じ」、「ダンボールのくせに高い」ってのがあったが、たぶんこれは宗教上任天堂批判しなければいけない人、ゲームをやらない人の意見だと思う。

 

僕は、コンピュータゲームがこれまで人類が生み出してきたエンターテイメントの究極進化系で、そのポテンシャルを全然生かしきれていないと思っている。

ゲームでやれないことはなくて、小説、演劇、伝統芸能、映画、音楽、全部内包できる。究極的には、宇宙全部シュミレートできてしまう。

純文学を読んでいたら偉くて、ゲームが子供っぽい・低俗と見られ、外国映画に詳しかったらかっこよくて、ゲームに詳しかったらオタクっていうのは、世間全般も開発者すらゲームの固定概念を覆せていないんだと思う。

 

Nintendo Laboがどのくらい売れるのか僕はわからないけれど、安易な続編ばかり出して守りに入っているよりも、ずっと意義のある展開だと思う。

一番関心したのは、ダンボールなので、色をぬったり加工が容易という点だ。ソフトウェアの中だけではなく、外に向かってもクリエイティビティを発揮出来る。

LABOっていうくらいなので、究極的には自分でソフトウェアを開発して、ダンボール型をオンデマンド印刷式で発注するくらいまで育つと良いなと思う。

次世代のクリエイターの育成まで、夢が膨らむプロダクトだと思う。

 

任天堂の周辺機器好きは、周知の事実だけれど、これは最終形態なんじゃないかな。

任天堂スイッチのスイッチというのは、据置機と携帯機のスイッチという意味ばかりと思っていたけれど、その本質は、エレメントが分解できる点という事に気がついた。

この点でも最終的にはディスコンされてしまったGoogleのモジュール式スマートフォン「Project Ara」を思い出す。

今後も面白い提案が出てきそうで楽しみだ。